「さかなクン」への誹謗中傷

 「さかなクン」に対する誹謗中傷の記事を読んだ。「雑音てか、不愉快すぎてもうほんとお願いだから存在自体消えてとは言わないからテレビから消えて」とか「さかなクンの大人げなさに子供が引いている」とか「うるさくてテレビ見ていても耳障りで楽しみにしていたのに見る気もうせた」とかが誹謗中傷の内容のようだ。
 随分と大人げない誹謗中傷だが、わからないでもない。一部の人間にはそうした感じ方もあるだろう。そうした人たちは早く大人になって「さかなクン」を楽しめるようになるとよいだろう。最近の人たちは年齢よりも精神的にませていると聞いたが、皆が皆そうではないということだ。人間、ピンからキリまであるのだから、考えてみるまでもなく、それは当然のことだ。
 誹謗中傷する人を非難するのも気持ちはわかるが、そうした人たちの成長を待つという大らかな気持ちも必要だろう。もちろん、ただ待つだけでは成長は促されないので、そのための非難という意図を含んだものであればよいと思う。
 今回の誹謗中傷のレベルは十四歳から十七歳ぐらいまでの青少年の一部にありがちなものに似ている。だから、裏を返せば、今後の成長が見込めるため、単なる誹謗中傷が、正当な価値ある批評に変化する可能性があるとも言える。もっとも、成人である場合は何らかの学習が必要かもしれない。しかし、誹謗中傷と批評は似ても似つかないものなので、学習もそれなりのものでなければ役に立たない。
 たとえば、似たような状況に自分自身が立たされ、絶望するところまで追い詰められるとか、自分が尊敬する人からたしなめられ、それによって大きな不利益を実際に被ることになるとか、そうした大きなダメージを負うことによってなされる学習だ。時ならぬ努力や、時ならぬ変革は、そうしたリスクを孕んでいるものだ。
 「さかなクン」を貶めるという行為の裏には、「さかなクン」への羨望があるかもしれない。一般の社会生活において、テレビで見かけるような「さかなクン」の言動をとれば、変人ということになってしまう。
 自分自身が普通レベルから外れそうになることへの恐怖を感じるタイプの人たち、あるいは実際にそうした状況になりそうな立場にある人たちによって、普通と違う人はいじめられやすい。誹謗中傷は言葉によるものだけに、エネルギーや費用や工夫などを必要としない、最もシンプルないじめだ。
 他人をいじめることによって、自分は普通の人だということをアピールするという遣り口だ。つまり、人間的に普通レベルにある人たちの仲間に入っているということを、自己確認して安心するとともに、自分が普通レベルにあることを周囲にも披露するというシステムだ。誰にでもある人間的欠陥を、これによってある程度カムフラージュできるという計算が無意識にはたらいた結果として生まれた発言というわけだ。
 魚のことに異様に詳しいだけの単なる魚オタクじゃないかという思い。それなのに一定の人気がある。そして、魚関係の番組では非常に重宝されている。のみならず、大学の先生としても人気がある。言うまでもなく、魚に関する知識が途方もない。クニマスの発見にも貢献した。天皇陛下の前でも帽子を取らなかったことが世間で非難されない。あれだけ騒々しくても世間は微笑ましく「さかなクン」を見守っている。特別で、しかも愛されている存在なのだ。
 そんな特色のある活躍をしたり、幅広く愛されている人に対する羨望。その羨望を自分自身でも感じているということに、情けなさを感じるという図式。それが無意識のところではたらいているのではないだろうか。
 テレビで「さかなクン」の姿を見たくないという気持ちの裏には、このようなある意味わかりやすい人情があるように感じる。
 しかし、今回の誹謗中傷とその記事によって「さかなクン」の人気が特段高まるということはないだろうが、ファンが「さかなクン」に対してかける愛情はますます深まったはずだ。その上、誹謗中傷に対する非難が多いことから、誹謗中傷を書き込んだ人の中には、ものの見方を一段階レベルアップさせる契機を得た人もいるに違いない。
 こうしたことを考えると、「さかなクン」は嘆く必要も悩む必要もない。もし騒ぐのが芸風であれば変えにくく、個性であれば更に変えにくい。元々変えにくいものなのだ。これをテレビが採用している以上、気に入らなければチャンネルを変えればよいだけのことだ。魚の番組がどうしても見たいのに「さかなクン」が登場したときには、ボリュームを下げればよい。
 そのためにリモコンはある。それが面倒なら我慢をすればよい。我慢するのが嫌なら見なければよい。それだけのことだ。テレビ以外にもたくさんのメディアがある。魚図鑑もそうだが、昔よりも数多くの書籍が出版されている。そちらで魚の知識や豆知識を得たり、「さかなクン」よりも詳しい解説を読んだり、「さかなクン」のイラストよりも本物に近い図版を眺めていればよいことだ。実に静かなものだ。
  

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国会のヤジ批判かと思ったら

 国会のヤジは聞いていて見苦しい。いや、聞き苦しい。いや、両方だ。小学生のときだと思うが、授業で国会中継を視聴したことがあった。何の審議か何の授業か覚えていないが、そのヤジに対して教室でヤジが飛んだのは覚えている
 「発言が聞こえないよ!」「邪魔してるの?」「駄目だな大人は。」等々。「静かに見ましょうね。」と先生。授業の意図はわからないが、政治に対する不信感を持つようになる、一つのきっかけとなったことは確かだ。
 テレビニュースでも、映画のニュース(昔は映画館でも映画が始まる前にいくつかニュースが流れた)でも、それは酷いものだった。ヤジどころか乱闘騒ぎまであったので、政治家は尊敬できない人々の集まりだという考えに落ち着いてしまった。
 それから長い年月が経ったが、国会はもっと酷い状況になっている。汚いヤジ、知性の感じられないヤジも多い。
 ネットで、ヤジに対する二階氏の「静かに聞け」を恫喝だと見なすネット記事を見つけた。その記事には、恫喝せしめたヤジについての言及がないのだ。これはまずいだろう。原因があって結果がある。新聞には紙面の制限があるが、ネットの記事なのだから、それはないだろう。次はその記事。
 
「オモテに出てはいけないおじさん」二階俊博幹事長を“二階語録”で振り返る
http://blog.livedoor.jp/kororoko1/archives/1066886944.html

 この記事は、ヤジの原因から書くのが筋ではないか。なぜヤジられたか。これについて言及していないので、ヤジの正当性やヤジの効果が読み取れないのだ。一方的に、「静かに聞け」という発言を、恫喝と評価しているのだが、ヤジがどのようなものであったかを書かないということが、最もまずい点だ。特に全国に中継される国会におけるヤジは問題がある。そこに触れずして、そのヤジに対する二階氏の態度だけに注目させるのは、いくら記事を焦点化して書くといっても、それは断片的すぎるだろう。
 これはヤジの擁護、正当性を主張する記事ではないが、それを前提としている記事になってしまっている。国会の伝統なのかもしれないが、まだ論争というものが未熟な時代の名残だから、恥ずべき伝統だ。それが世の中に与える影響、特に小学生に与える影響というものは計り知れないものがあるだろう。
 人が話をしている途中で口を挟むというのが、いかに無礼であるかということを教えるところから、人というものは育つと思うのだ。
 興味があるのは、「静かに聞け」の後だ。ヤジが静まったなら、それはそれで情けなく、ヤジがとまらなかったら、それはそれで愚かな態度だ。どちらにしても駄目だ。これについても言及されていない記事で驚く。記者は言葉で勝負するのからもう少し考えて記事を構成してほしいものだ。